今まで興味など持ったこともない系統の話題だったので、思いつくのに時間がかかった。美鶴は今、誰かに出会いたいワケではない。むしろ誰にも出会いたくはない。だが―――
女性は無料なんだ。
ティッシュを握る手に力が入る。
別に、こっちにその気がなければ何も起こらないんだよな。問題を起こすのは、男相手に金を稼ごうとする輩で、そういうつもりがなければ大丈夫なんじゃないのか? 声を掛けられたって、断ればいいわけだし。
自宅には、できれば帰りたくない。だが、薄暗くなり始めた秋は寒い。
住所は木塚駅の近く。電車賃くらいならまだお金はある。
ティッシュを持っていないもう片方の手にグッと拳を握った時だった。
「美鶴?」
「へ?」
「美鶴じゃん」
あまりの驚きに掠れてしまった声で、ツバサが美鶴の名前を呼ぶ。
咄嗟にティッシュをポケットに捻じ込み、ツバサの名前を呼ぼうとして、だがその言葉をツバサが激しく遮った。
「そうだよっ」
何が?
そう問いかける前にツバサがこちらに素っ飛んでくる。
素っ飛んでくる、という表現がピッタリだ。数歩離れていた美鶴に向かってもうダッシュで走り出し、そのまま飛びつくように美鶴の肩に両手を置いた。
「そうだよっ! そうだったんだよっ!」
ツバサはひたすら繰り返す。両肩を鷲掴みにされたまま、美鶴は呆気にとられるばかり。
そんな相手の顔を凝視したまま、ツバサは自分が興奮していくのを感じた。
そうだよ、どうして思い出せなかったんだろう?
塩入りクッキーのドタバタ騒ぎですっかり悩みを吹き飛ばしてしまったツバサは、フーッと息を吐きながら唐草ハウスを一人で出た。
結局、今日一日、里奈とは会話らしい会話も交わせなかった。クッキー作りやなにやらで、二人っきりになる時間が無かったというのも理由だが…
なんとなく、意図的に二人っきりになるのを避けてたような気もするな。
そういう自覚が、ツバサにはある。
今朝、コウとどんな会話したんだろう。
コウからの話は聞いた。だが、物事には両面がある。コウにその気がないとしても、ひょっとしたらシロちゃんにはまだ未練があるかもしれない。
コウとは、美鶴の家がどこにあるのか調べてみると約束した。場所がわかって、シロちゃんに知らせる時にそれとなく聞いてみればいい。
そう言い聞かせながら、そんな事は自分にはできないのではないかという気弱な自分もいる。
コウを信じていればいい。疑う必要はない。だからこちらから聞く必要もない。
そう言い聞かせるのに、どうしても、それではいけないと言い張る自分もいる。
お兄ちゃんに、会いたいな。
だが、その兄が今どこに居るのかはわからない。彼女である織笠鈴はもうこの世にはいない。手掛かりは小窪智論という人物。理事長と何らかの関係があるらしい。霞流という名前も聞いたが、こちらは大して役にも立たないだろう。
とりあえずは明日学校で卒業生名簿でも調べてみるか。って、名簿ってどこにあるんだろう? 図書室?
などと首を捻りながらブラブラと歩いているところで美鶴と鉢合わせた。
いつもながら無表情の無愛想で夕闇を歩いてくるその姿に、だがツバサには、パァっと明るい後光が指しているように思えた。
あぁ!
もう少し気を抜いていれば、それは素っ頓狂な音を伴い、実際にツバサの口から飛び出していたかもしれない。
思い出したっ!
「そうだよっ」
そう叫び、美鶴に飛びつく。
何がだ? と言いたげな相手の顔を覗き込み、ツバサは確信する。
「美鶴、あんた霞流って名前、知ってるでしょっ?」
「え?」
瞬間、心臓を鷲掴みにされるような激痛。息が止まるかと思うような感覚の中、美鶴はようやく声を出す。
「かす… ばた」
「知ってるでしょ?」
問われ、美鶴は素直に知っているとは言えなかった。
自分が霞流という名前を知っているという事実が、ツバサとどのような関係にあるのか? そもそも、なぜ今ここで霞流さんの名前が?
困惑したような表情で無言を貫く美鶴に、ツバサは圧し掛かるように身を傾ける。長身のツバサを見上げる美鶴。
「しっ」
知ってるでしょ? と再び問おうとし、だがツバサはようやく相手の表情にハッとした。
これじゃあダメだ。
焦る気持ちをグッと抑えこみ、ようやく少しだけ身を離す。
「ごめん、驚かせた」
「あ、いや」
ようやく落ち着いてきた相手に、肩の力を少しだけ抜く美鶴。
「あの、でも、霞流って名前、あんたから聞いたような気がして」
片手を肩から離し、前髪を無造作に掻きあげる。黄色い髪留めがチカリと光る。
「気のせいだったかな? 違った?」
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